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死生学とは

死生学は、未だ新しい学問分野で、一義的にその体系が必ずしも構築されているとはいいきれないが、その守備範囲は広く、学際的な研究分野を持ちます。心理学、哲学、宗教、社会学、医学、生物系学科、文学、芸術、さらに、民俗学等死に関する全ての問題を包含します。死に関する学問領域を総合的、総括的に構築されるべき学問分野です。

 この語源について少し触れておきます。何故、サナトロジーと呼ぶのかといいますと、ギリシャ神話によりますと、死と眠りは双子の神であるといわれます。死と眠りを擬人化して名前がつけてあります。死の神をタナトス、眠りの神をヒュプノスと呼びます。このタナトスから由来しているようです。

 サナトロジーは広い学問領域を持つ学際的学問だといいましたが、換言すると死に関わる多様なテーマへの学際的アプローチだといえましょう。具体的にどんなテーマがあるかといいますと、例えば、この地球上には時代を超え、民族を超え、国境を超えて、更に宗教を超えて多様な人たちが生き死にを繰り返して生活しています。その人たちがどんな死生観を抱いているのかということは極めて重要なテーマです。

 更に、死ぬのが怖い、何故だろうか。死んでゆくときはどんな気持ちで死んでゆくのだろうか、という死へのプロセスの心理的研究、もう治らない病気の場合に医療は何が出来るのか。タミナルケア、尊厳死、悲嘆教育など極めて切実な私たちの生き死にに直接関わる、根元的なテーマについて、サナトロジーの成果を活用して学んでゆきたいと考えています。

 サナトロジー(死生学)を基礎にした実践段階を死への準備教育、デス・エデュケーションといいます。死に関する広い学問領域の教育です。日本におけるその教育の現状は極めて貧しい状況です。広辞苑にも載っていないことに表徴される通りですので、外国の場合を紹介します。

 アメリカ、ドイツ(西)では、約30数年前から、小、中、高校においてカリキュラムが組まれてデス・エデュケーションが実施されています。アメリカは宗教の時間がないので、デス・エデュケーションの時間が別に設定されています。ドイツの場合は、公立でも宗教の時間があるので、その時間の中で実施されています。

 日本の場合、漸く死の視点からの記事が新聞紙上にも掲載されるようになりつつありますが、若いときからふと立ち止まって、生老病死の底に流れるニヒルなものを見つめる習慣をつけることが必要だと思います。行政でもこの面からの取り組みは皆無といっても過言ではありません。
1、生ある限り充実した人生を送りたいと言う抱負。

2、人生の終末における死についてのその人の考え方。

の2つが出てきました。

わかりやすく言うなら、

1、死ぬにあたっての『抱負』
2、自分の死についての『感想』
と、言ったところでしょうか?

もうこの時点で、定義が大きく二つに分かれてしまっているんですよ。

死生観は何ですかと聞かれて、抱負を語る人と、感想を語る人といるわけで、話がかみ合わなくなるのです。



●そこで、死生観の定義への提案

私の提唱している、実践的に自分に当てはめて考えられる死生学、【実践死生学】では、『死生観』を次のように定義しています。

『自分の終末期ってこうだったらいいな〜を考え、表現したもの』と…。

ちょっと想像してみてください。

ご自分の終末期の風景・雰囲気を・・・。

その想像の中から、あるキーワードが出てくるのではないでしょうか。

例えば、「家族に囲まれて…」と『家族』が必ず出てくる人や、「生涯現役で…」と『仕事』がキーワードになる人など価値観の優先順位に気付きがあることでしょう。

死生観を考えることで喜怒哀楽が出るところもポイントです。例えば、ワクワクしながら自分の死生観を考えるってことを実感できるからです。

死生観って、教訓めいたものや難しいものだという今までの印象から、ワクワクして誰にでも考えることができる素敵な価値観なんだという印象に変わるとしたら、もっと死生観が身近になるのだと思います。

子供が生まれたり、身内の方が亡くなったりなどで死生観は変わっていくものです。

変わって当たり前なのに、ある著名人や偉人の死に関する言葉をそのまま引用しただけだったり、教訓めいた自分の死の感想をずっと持ち続けたりするのは死生観として不自然だと思います。

だから、「自分が段階死にあったら終末期ってこうだったらいいな〜」と考え、表現するという『抱負』を死生観と定義したほうがわかりやすいと思うわけなのです。


●死生観を持つ意味

告知などで突然、死を意識した時に、死生観を育んでいたか否かで受け容れ方が変わってきます。死生観として『抱負』を持っていることで死に対する心構えや心の整理がつきやすいとしたら、死生観を持つという意味の重要さがおわかりになるかと思われます。

また、死生観を持つことで死のタブー視を薄められるのではないでしょうか?

なぜなら、
「死ぬ前に○○がしたい、こう死んでいきたい。」と本人が考えを表現することで、家族は死という不謹慎さに嫌な顔をしながらも、本人の抱負に近づけようとしてくれます。

「ずっと前から、○○したいって言っていたからね」と本人のしたいことと死を関連付けて家族が考えてくれるということは、死という前提がそこにあり、死について本人と家族が話せる土台・環境ができあがっているからです。

死生観を感想ではなく、抱負として考えを統一し、死生観を育むこと=「自分の終末期ってこうだったらいいな〜」とその時その時考え、話し合うことで、タブーが薄まるという流れになるのです。

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